他人の言葉は変えられない。でも、自分がそれをどう受け取るかは選べる

他人の言葉は変えられない。でも、自分がそれをどう受け取るかは選べる

私に贈る言葉

他人の言葉は変えられない。でも、自分がそれをどう受け取るかは選べる。

エピクテトス(哲学者)

いつ、どんな場面で発言されたか

この言葉を残したエピクテトスは、紀元50年頃〜135年頃に生きた古代ローマのストア派哲学者です。彼の人生そのものが、この言葉の説得力を裏打ちしています。なぜなら、エピクテトスは奴隷として生まれた人物だからです。

小アジア(現在のトルコ)のヒエラポリスに生まれた彼は、ローマで奴隷の身分に置かれながらも、主人の許しを得てストア派の哲学者ムソニウス・ルフスのもとで学びました。やがて自由の身となった後は自ら学塾を開き、弟子たちに哲学を説きます。

エピクテトス自身は一冊の著作も残していません。彼の教えは、弟子のアッリアノスが師の講義を書き留めた『語録(ディアトリバイ)』と、その要約である『提要(エンケイリディオン)』を通じて今日まで伝えられています。

今回ご紹介した名言は、『提要』第5章に記された「人々を不安にするのは事柄そのものではなく、事柄に関する判断である(タラッセイ・トゥース・アンスローポゥス・ウー・タ・プラグマタ、アッラ・タ・ペリ・トーン・プラグマトーン・ドグマタ)」というエピクテトスの中心的な教えを、わかりやすく現代風に意訳したものです。奴隷という、自分ではどうにもならない境遇のなかで磨き抜かれた思想だからこそ、約二千年の時を超えてなお、私たちの胸に深く響くのです。

言葉の意味

エピクテトスの哲学の根幹には「制御の二分法」と呼ばれる考え方があります。『提要』の冒頭第1章で、彼はこう説きます。「存在するもののうち、あるものは我々次第であるが、あるものは我々次第ではない」と。

つまり、世の中には「自分でどうにかできること」と「自分ではどうにもならないこと」の二種類がある。他人が何を言うか、どう振る舞うか、世の中でどんな出来事が起こるか――これらは「自分次第ではないもの」に属します。一方で、それらの出来事をどう受け止め、どう解釈し、どう反応するか――これは紛れもなく「自分次第であるもの」です。

この名言が教えてくれるのは、私たちが本当に苦しんでいるのは「他人の言葉そのもの」ではなく、「その言葉に対して自分が与えた意味づけ」だということです。誰かに心ない言葉を投げかけられたとき、傷つくのは自然なことです。しかし、その言葉を「自分の価値を決定するもの」として受け取るか、「相手の機嫌や価値観の表れにすぎない」と受け取るかは、自分自身で選ぶことができる。エピクテトスは、この「受け取り方を選ぶ力」こそが人間に与えられた真の自由だと考えました。

奴隷として身体の自由を奪われた人間が到達したこの境地は、逆説的に、どんな状況にあっても人間の内面だけは何者にも支配されないという力強い宣言でもあるのです。

私に贈るメッセージ

職場での厳しい一言、SNS上の何気ないコメント、大切な人からの思いがけない言葉――私たちは日々、他人の言葉に心を揺さぶられながら生きています。そしてその言葉が頭の中で何度も何度もリフレインし、眠れない夜を過ごした経験がある方も少なくないのではないでしょうか。

そんなとき、約二千年前に奴隷の身分から哲学者になったエピクテトスのこの教えを思い出してみてください。あなたを本当に苦しめているのは、相手の言葉そのものではなく、その言葉に対して自分自身が貼りつけた「意味」のほうかもしれません。

もちろん、これは「傷つくな」「気にするな」という無理な精神論ではありません。傷つく感情は自然なものであり、否定する必要はありません。ただ、傷ついた後に「この言葉を、自分の人生にどれだけの影響力を持たせるか」を決めるのは、他でもない自分自身だということです。

他人の言葉は変えられない。でも、その言葉が自分の心のなかでどんな力を持つかは、あなた自身が選べる。この小さな気づきが、今日のあなたの心をほんの少しでも軽くしてくれたら幸いです。

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